◎今朝から御神前で「難儀は神様のウインク」と頂かれた。難儀と思う時には、神様がモーションをかけてある時というのである。ならば苦に苦が重なるような時には、いよいよ神様の愛撫を受けておる時であると実感出来れる、感じれる信心を頂きたい。その信心のイメージアップの手立てが合楽理念に説かれるのである。仏教と言えば縁起の悪い葬式宗教のようなイメージがあり、キリスト教にあっては愛を説きながら、数十年の歴史は血塗られたものであることを思うとやはりイメージが悪いように。あらゆる宗教に対してのイメージが合楽理念によってアップされねばならない。自分は悲しい運命にあるんだ、悲しい星の元に生まれたんだ。一生を茨の道で歩かねばならないと、例えばこの一生は下から上へ水を流すように難しいけれども、合楽理念によれば悲しいことでも、苦しいことでもない。今朝から頂かれたお夢のように、何百本あるか分からない程の菊正宗のお神酒の中に座っている親先生、そして「生まれたといやあお神酒、死んだといゃあお神酒」と頂かれたように。死のうが生きようが有難き勿体なきの中に浸っておるということ。それは合格したといえば菊正宗(喜久正宗)、不合格というば不合格御礼というように。成就しなかったことに有難き勿体なき恐れ多きでお礼が言えれる。そこに神愛を感じれる、神願成就の為の働きであるとして、下から上へ水を流すように難しい。悲しいことに対して、このようにして力をつけて下さると辛抱の素晴らしいタイミングを頂きながら、天地のリズムに乗っての辛抱だから有難いもの楽しいもの、しかも愉快なまでに信心のイメージアップされ辛抱していく事が出来るのである。そういう辛抱こそ、昨日の月次祭に初めて三千台を越え、四千十三名のお届けがあったように、合楽教会そのものに徳となって日勝り月勝り年勝りにおかげを頂きながら、しかも神願が成就していっておる。そこから生み出されて来るおかげは下からぢゃない、上から下へ水を流すようなスムーズなおかげとなって現れて来る。金光教に対してのイメージアップ、それは合楽理念によって下から上へ水を流すような難儀の真只中にあっても、その苦労が実態を分かり喜び勇んでお礼が言える合楽の信心の真髄を頂いての辛抱にある。
昭和五十六年九月二日 朝の御理解
X御理解 第九十節 上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ、たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる。
昨日のお月次祭に、初めてお届け数が四千台を越えた。四千十三名のお届けがあっております。その十三名がいいぢゃないですかね。所謂、神願が成就していっておるということ。神様の願いが合楽教会にかけられるその願いがね、それこそ日勝り、月勝り、年勝りに、こうおかげを受けておるということが有難い。
始めの内は、それこそ辛うて辛うてよう泣いたと、三代金光様が仰せられるように。初めから楽なことはなかった、ね。それを辛抱していく中に合楽教会そのものにお徳を受けてね。云うならば年々歳々というよりも、日勝り月勝りにおかげを蒙っていっておるということ。しかも、そのおかげを蒙っていっておるということは、そのまま神願が成就していっておるということ。
お互い銘々の上にもね。私共の願いが成就するのではなくて、神様の願いが例えば久富繁雄という人がここにおんなさるが、久富繁雄さんの本人の上にも、家の上にもその願いが成就していくということ。それが神様の喜びなんだ、ね。
今朝方からお夢を頂いておった。昨日は、昨日のお月次祭にお参りになった方は気がつかれたと思いますけれども。最後の大盛の中に、大盛台一台が菊正宗でいっぱいでしたね。超特級の菊正宗。皆さんが頂いとられるお御酒には、ここはもう数十年あの超特級の菊正宗ばっかりです。皆さんがお月次祭に頂いたり、頂いて帰っておられるのは、あのお神酒が使われます。
私が菊正宗が一番好き、これは私が酒のことだけは玄人ですから、もう何と言うてもね。その菊正宗の右に出る酒はありません。もう菊正宗だけしか持たない特有の、云うなら味と香りがあるわけですね。ですから集まって来るのもお神酒、お神酒(ごしんしゅ)には必ず菊正宗です。
しかも昨日は大盛台にいっぱい菊正宗ばっかりであったからそういうような事だっただろうかと、『お夢の中に、もう何百本あるか分からない菊正宗がいっぱい。その私を埋めるように沢山あるんです。中には所々に福何とかというでか、福徳長とかね、月桂冠とかという、勿論超特級のお神酒が所々あるんです。そういう菊正宗のね、そのいっぱいある中に私がちょこんとこう座っとるところを頂いた。そしてあの、生まれたといやお神酒、死んだといやお神酒と頂いたんです、ね。』
まあ最近の御理解から言うと、合格したといや菊正宗のお礼の云うならお供え菊正宗というのは、私は喜び久しいというふうに頂くんですけれども。喜びのお神酒、有難き勿体なきのお供えをする。不合格したといゃ、不合格御礼ということになって。どんな場合であってもお神酒が合楽には集まってくるということです。しかもそれが殆どが菊正宗ばっかり。昨日のお供えもやっぱそうでした、ね。
皆さんどういうことだと思いますか、ね。有難き勿体なきの中に浸っておる。しかもね、それは死のうが生きろうがどんな場合であっても。合格しようが不合格であろうが、答えは有難き勿体なき恐れ多きでお神酒のお供え。云うなら不合格御礼である。不成就御礼、成就しなかったことの御礼。もう結局喜びばっかりである、ね。
%1昨日初めてお参りになったでしょうか、朝の御祈念に。ここの田中良子先生が従弟になるでしょうか。伯母さんが西田さんと申します。福岡から熱心にお参りなさいます。昨日はご一緒に参っておられました。そして御初穂を見せて頂きましたら、御初穂に信心のイメージアップを願いますと書いてある、ね。
皆さんの金光教に対するイメージはどんなもんでしょうか、ね。たとえて言うと仏教などはまあ最近仏教、仏様お寺さんと言うただけで何か縁起の悪いような感じ。それは結局お葬式だけのための宗教のような感じに、そんなイメージがあるわけですね。
キリスト教なんか知らんけれども、まあ愛を説きます。ながら数十年の間、それこそ血生臭い云うならば宗教戦争が続いておるというのですから、ちょっとやっぱりイメージがね。兎に角金光教、キリスト教は茨の道であり、十字架を背負うておるんだというようなイメージがございますですね。
こりゃ私のイメージですから、皆さんどうでしょうか。金光教でもやっぱりそれぞれのやはりイメージがある、ね。その方の願いというのは、ただおそらく過去の金光教または数十年続いたと言われる大宗教。とにかく宗教、仏様と神様かとか信心に対するイメージというものがあんまり良くなかったのではなかろうか。
西田家といゃもうそれこそ代々信心をなさっておるお家だそうですがね。田中良子先生の所のお家。けれどもその若い娘さん達に対する金光教に対するイメージというものはあんまり良かったのぢゃなかったかも知れません。だからアップをはかろうというのです。
やはり人間は何というても、いよいよの時には、やっぱ人間の智恵やら力ではどうにも出来ない事がある。為には、なら親兄弟が皆やっておる金光教をさして頂きたいけれども。過去の金光教にはあんまり良いイメージがなかった。そのイメージアップの願いをされる。変わったお願いだなあと私は思うてお取次させて頂いたことでございます、ね。
最近合楽で、所謂言われるところの合楽理念。合楽理念に基づくと。信心とはね、勿論有難いもの。嬉しいものね。しかもそれこそ愉快にすらなってくる。最近小竹の方から和泉さん御夫婦、いや時には子供達も一緒にお参り。一家中の、或る教会で信心の稽古をなさっておられた。
金光教の信心とはこうだというふうに思い込んで信心しておられたのが、合楽に見えられるようになってイメージが段々変わってきたように思う。というのは、あの三十一日の信話会の時に発表しておられたのを聞いてから。はあ云うならば金光教に対するイメージが変わってこられたなあというふうに思ったんです。合楽にご縁頂くようになってもう日々がね、神様をそこにいつも感じておられるんです、ね。
もう素晴らしいタイミングが生まれて来たんです。あの人に合いたいなあと思うと、もうそこで合うことが出来たり、ね。その自分の願い、思いというものがリズムに乗って、これが合楽で言われる天地のリズムだろうかという話をなさいました、ね。
金光教に対するイメージが変わってきたわけです和泉さんの。成程それがね、おかげ、願いが一遍にポーンと成就するとか、一遍におかげ頂いたと言うんぢゃなくてです。そういうリズムに乗っての日々ですから。云うならば例え下が上へ水を流すようにそれは難しいことであるけれども、そこには辛抱力がいるのですけれども。その辛抱がしよいのです、ね。
リズムに乗って、リズムに乗ってすると出らん声でも出るように、ね。兎に角日々が有難い楽しいものになって来るんです。しかもたまには本当に信心とは愉快なものだと。所謂、過去の信心のイメージというものから、云うなら脱皮すると言うか、変わってしまう。信心とはもう有難いもんだ楽しいものだというようにです。
私は合楽の場合は、これは全宗教と言うても良いです。金光教を含めて、ね。合楽理念によるイメージアップをしなければいけないなあというふうに思います。どうでしょうか皆さん。信心とは辛いもの、茨の道を歩くようなもの。修行から修行だと、ね。けれども修行そのものが有難うなって来るというのですから、ね。
合格しても有難いなら不合格でも有難いと。有難き勿体なきをのお供えを指してもらわなければおられないような教導を皆さん日々受けているわけであります。それも微に入り細に渡ってですね。自然を大切にする。云うならばお互いの頂いておる運命そのものを愛することを教えられる。
自分の、自分は悲しい苦しい運命のもとに。そういう星の下に生まれておる。だから信心でもさしてもろうておかげ頂かんならん。もう始めから自分のように、良くない星の下に生まれておると決め込んでおるからおかげ頂く筈がない。結局一生を茨の道で歩かんならん。一生を十字架を背負うて歩かんならん。
ところが合楽の場合はそのイメージアップがね。それは苦しいこと、悲しいことぢゃないですよ。今日は私は御神前で頂きましたのに『難儀は神のウインク』というふうに頂きましたですね。ウインク、神様が私共にモーションかけよんなさる、ね。それを難儀としてしまう。難儀ぢゃないんだとイメージ変わってしまうでしょう。
難儀こそ神愛の現れだと説くでしょう。しかものう、神愛だゃろうがの、やっぱり神様のこれが思い、神願成就のための働きぢゃろうがということを実験実証を持って皆さんもそれを実証していく事が出来る。また教えもそう説く。難儀というもののイメージが変わって来るわけです、ね。そして神様がこのようにして育てて下さる。このようにして力を与えて下さろうとするという、云うなら下から神へ水を流すように難しいのだけれども。そのことが楽しゅうなって有難うなってくる。
そういう辛抱をしていっておればで、ね。徳が受けられるとあります。徳を受けたらどういうことになるでしょうか。合楽教会そのものに徳を受けた。おかげを頂いて、云うなら日勝り月勝りにおかげを頂いておる。どうしても四千台ということに近くまではあるけれども越えられなかったけれども。昨日のお月次祭を境いに四千十三名のお届けがあっておる。その四千という峠を越した。それは十三であった。それが神様の願いであった。神願がそのようにして成就していっておるんだと、ね。
下から神へ水を流すような難しいこと。そのことも茨の道ではない。もう楽しゅう有難う越えにくいところもリズムに乗って越えて行く事が出来るというのが私は合楽理念だと思うです、ね。難儀が神様のウインクならその難儀にまたそれこそ九十九節です。
この頃二、三日前頂きましたように、苦に苦が重なるといったようなことは、こりゃもう神様の愛撫という他はないのです。その神の愛撫に感じれれるおかげを頂いて初めて合楽世界があるのです。次に生み出されてくるおかげというものは、それこそ下から上へ水を流すのではない。上から下へ水を流すようなスムーズさというものが出て来るのです。
今の合楽はそうだと思います。上から下へ水を流すようなスムーズさを持って日勝り月勝りのおかげを受けておるということであります、ね。西田さん所の娘さんの願いぢゃないですけれども。金光教に対するところのねイメージを変える。難と思うておった事は、それこそ難はみかげであった。むしろ難あったら喜ばして頂かにゃならない。そこまで分かるんだけれどもいかにすれば喜べるかという手立てが教えられなかった。
現在の合楽で、なぜ喜ばねばならないか。喜ぶ手立てをです。昨日一昨日、昨日頂いておるように、それこそただ喜びだけではない。喜びに喜んで、喜びに勢いをつけて頂いて行けれる。云うなら手立てが説いてあるのですからね。
人間が人間らしゅう生きるということは、これは自分自身に忠実であるというふうに二、三日説いておりますね。けれどもそれだけではいけんのです。神様のみ教えにも、なら合楽理念の実験実証という、云うならばそれを合楽理念に、何々は合楽理念を持ってする他はないというね。いうところにです合楽理念を持ってするその生き方がですに忠実であらなきゃならない。云うなら教えに忠実であらなければならない。
そこにアンバランスにならずに、所謂バランスのとれたね、おかげの世界があるんだというふうに説きます訳ですね。だから皆さんどうぞ、ただね合楽に通うて来ておったり、物の見方考え方が変わってきた。イメージが変わってきた。そのイメージがアップされてきたね。云うならば今まで難儀と思うておったのが神愛であると分かる。むしろお礼を言う心が生まれてきた。しかも涙がこぼれるように有難い。背中に熱い汗を感じながら、前からは有難涙がこぼれる、ね。そういう信心。そういう修行をお互いさせて頂いとるのであります。
始めの間は誰しもやっぱり通らなければならないことは、下から上へ水を流すようなもの。今難儀の真最中、真中だと言われる。これが苦労の真中かいなあというようなところを通っておる人達でも、その苦労の云うならば実体というかね。その苦労に対するところのイメージがアップされた時に。苦しいです、けれども有難いという有難涙が出る程しなものになってくる手立てを日々稽古しとるわけです、ね。
そこで、なら私のような運命の悪い、自分のような星の下に生まれた者が悲しいと思うておったことがです。それこそめぐりが大きければ大きい程おかげも大きいと言われるようにね。それこそ神愛をそこに感ずる時にです、ね。有難しという以外にはない。
私が沢山の菊正宗の中に、この座っておるという事は。そういう事ぢゃないだろうか。それこそ合格してもお神酒なら、不合格でも不合格御礼が言えれるような信心。そこに合楽の信心の真髄があるという事でございます。為には日々です、私共が天地のリズムを感じながらということはそこに神様を感じながら神の声を聞きながらということなのです、ね。
ですから下から水を上へ流すように難しいことであっても、その事に対してお礼が言えれる。神様有難うございますが言えれる。結構な修行さして頂いて有難いという答えが出てくる。それを私は今日はお夢に頂いて、その事ぢゃないでしょうか。
お互い難儀は神様のウインクである。その難が難に重なっておるかのように、苦に苦が重なっておるかのような時には、いよいよ神の愛撫を受けておる時であると実感出けれる。それが感じれれる信心を頂きたいですね。どうぞ。